原稿を終えるとミドリがパスタを作ってくれた。めかぶと納豆のパスタ。わたしがとてもすきなスパゲッティ屋さんの納豆パスタと全く同じ味がしたので感動し、感動してから、ということはわたしはあのお店のパスタだから好きだったのではなくて、納豆が好きだったということ?と思い、どうやらその可能性が高い。

きのうケイコからもらった中華料理屋のプリンを分け合って食べた。ちょっと感動するうまさである。中華料理屋のプリンがうまい。なんだかおもしろい気がする。なんでも鑑定団を見ながら二人で皿を洗い、午後も原稿がんばりましょう、と言われたが、散歩に行かないかと提案した。午前の原稿であたまを使ってしまって午後は書けそうにないことと、それよりもきょうの十四時台はなんとなく、ふたりで外にいるのがいいと思った。二人暮らしをはじめてそろそろ一年経つ。六年近く交際していて、一緒に黙とうをするのははじめてのことだった。

 

ミドリは、『まだ復興の途中です、と言われると、書き終えて気に入った絵に外部から来た人が<うまいけど、まだがんばれますね>と言ってくるみたいで腹が立つ、復興の途中だと言っていいのは当事者だけだ』というようなテキストを読んだのだけれど、その出典が思い出せないという話をしていた。わたしも読んでみたかったので残念に思う。それからミドリは(おそらく)福島で小学生だった時に被災したと思われる女性の書いたnoteをシェアしてくれて、それを読んだ。「忘れないで。絶対に忘れないで。わたしがもう忘れてもいいように、あなたがずっと忘れないで。」という一文がとても印象的だった。忘れない、と言えるのは、忘れそうな人たちなのではないか、と思っている。言えなかったことがみんなまだあるよな、と思う。氷柱の声を書いても、まだ震災関連のニュースや創作に積極的に触れることはむずかしいけれど、誰かの書いた日記をなるべく読みたいと思う。特に、同世代の日記を。

 

どこで黙とうをするべきか。わたしはいままでは会社のビルの立ち入り禁止の屋上にしれっと忍び込んで、屋上で黙とうをしていた。でもうちのマンションは屋上開放してないだろうからなあ。そうだよねえ。

「高いところか広いところがいいな、なんとなく」

「そうしよう、中津川にいこうか」

それで家を出て黙々と川沿いを歩いた。

「おれは海のある街を出てしまったからなあ」

と言ったミドリは

「川なら海につながってるし」

と続けた。わたしは「そうだね」と言って、鼻を少しぐすぐす言わせながら歩いた。花粉はひどく飛んでいるけれど、耳鼻科にかかっているおかげでここ数年の中では今のところいちばんらくだ。

 

植え込みにたくさんのチューリップの葉が出ていて、これから大量に咲くようだった。

「これからこれがみんな咲くよ」と言うと「花を知らない人でも知っている花TOP3。桜、チューリップ、たんぽぽ」とミドリは言った。ひまわりは? でも、ひまわりよりはたんぽぽか。たんぽぽだな。全部春咲く花じゃん、花を知らない人は春しか知らないってことか、などいじわるを言っていると、植え込みではない雑草の中にいくつかいぬふぐりが咲いているのを見つけた。いぬふぐりの小さくて青い花のことがわたしは昔からとても好きなのだが、犬のちんちんという意味の名前なので公に言いにくいという話をした。いぬふぐりのどこがちんちんなんだろう、ほかの花と同じ形なのに、と言いながら歩いていると、向こうからゴールデンレトリバーとおじさんが歩いてきて、ゴールデンレトリバーが脇道におしっこをしていた。軽く会釈してすれ違い

「犬がおしっこするような場所にばっかり咲くからいぬふぐりなんじゃない?」

と、大発見のようなきもちになった。ミドリは、おれは花の形が似ているに一票。と言いながら調べてくれて、正解は【花のあとに出来る実のかたちから名付けられている】とのことだった。見せてもらうと、いぬふぐりの実はたしかにけっこう犬のちんちんっぽさがあったので、ゆるす。と思った。

 

「震災から〇年、という言い方は、まるで震災がもう終わったことのように聞こえるから『東日本大震災の発災から〇年』という言い方にしようという流れがあったはずなんだけど、あれももうあまり見なくなったね」とミドリは言った。そういう流れがあったこと自体をわたしは知らなかった。ミドリは続ける。

「震災は過去にならないと思ってたんだけど。十年過ぎたあたりから過去みたいな感じになってきた気がする」

 

 

中津川へ着くと人通りがとても多くなった。公園に人だかりができていて、追悼のセレモニーが行われるようだった。わたしは一度もそういった催しに参加したことがない。今年は参加してたくさんの人々と一緒に黙とうしてみるのもいいかもしれない、という気持ちを、けれど、予期せぬナレーションや聞きたくない歌が流れたらどうしよう、テレビカメラに映されたくない、というきもちのほうが追い越していて、それはミドリも同じようで、わたしたちはまだ点灯されていないおびただしい数の灯篭の前を通り過ぎた。おびただしい数、と、思ってしまう。「希望」「絆」「ありがとう」と書かれたたくさんの灯篭の中にいくつか「FIGHT!」「ファイト」と書かれたものがあり、だれが何と戦うのだろうという気持ちが、ファイトと書ける神経がわからないという気持ちになり、わたしのような立場の人間が灯篭に何も難癖をつけてはいけないという気持ちへと落ち着き、12年間、わたしはこういう思考を何度やっただろう、と思う。

 

あと十五分で黙とうの時間になる。わたしは腕時計を見てすこし緊張した。灯篭の前で写真を撮る人たち、点灯の動線を確認するボランティアたち、合唱をするのであろう、ジャージ姿の中学生と思われる学生たちの前を通り過ぎた。学生たちの真顔は、深刻な面持ちというよりはけだるそうに見えた。そんなにだるそうにするなよ、と思いつつ、中学生にとってはもう、記憶にないくらい昔の話なのだとすると、記憶にない子供たちにどうして合唱なんてさせるんだろうと思ってしまう。

教育と震災が結びついている場に居合わせることがいまでもまだ苦手だ。「忘れない」と言わなければいけないとするならば、その役割を担うべきなのは震災の記憶のないいまの十代の子供たちではなくて、あのとき確かにしっかり自分のからだと心で考えることができた、かつての十代であったわたしたちであり、かつて十代だったわたしたちのこころを守ることよりも、物語としての正解を求めた、あのとき私たちを感動物語のための若者として利用した、あのときの大人たちのほうではないか。そういう、そういうきもちになった。忘れないとこどもに言わせる大人たちは、じゃあ、何を覚えているんだろう。

 

もっと人の少ないところへいこう。横断歩道の前で信号を待っている間、いくつかの会話が聞こえた。「あいつらは黙とう待ちっしょ」「たいへんだったんだから牛乳パックすごい集めてさあ」「花粉やば~」「あんときは体育館にいて」「補助金がなくなったら終わんだよ」「四十二分だっけ?七分?」

 

 

川沿いの喫茶店へ行こうかと思ったけれど、あたたかい昼間だったこともあってか何組か先客がいた。なるべく静かなところへ行きたかったので、通り過ぎた。川辺では鮮やかなピンク色のワンピースを着た女と、スケートボードに乗りそうな男のカップルがぴったりとベンチにくっついていた。こんな日にそんなピンクの服着るなよというきもちが、デートはいつどんなふうにしたって最高に決まってんだろというきもちになり、けれどこのカップルが視界に入る状態で黙とうは難しいなというきもちに落ち着いた。とにかく、黙とうをしているときは自分のことだけ考えたかった。

 

わたしたちは上の橋の近くの腰かけられそうな岩に並んで座った。あと四分くらい。ものすごい速さで鴨が目の前を飛んで行ったので、「鴨」と言うと「速いね」とミドリは言った。

「東ってどっちだっけ」と尋ねて、ミドリが「こっち」と指さしたのはわたしたちが背を向けている真裏の方角で、そちらを向くとすっかり土壁だった。「しまった、場所間違えたかな、向こう岸のほうがよかった」とわたしが慌てると「ううん、いいんじゃない。川のほう向こう。川の先が海だから」とミドリは言った。わたしたちは川べりで遊ぶ子供たちと、その川のひかりを眺めていた。

「おれ、柳って何回見てもすごいかたちだなあって思う」

「やわらかいことで生き延びようってすごいよね」

「柳って『生まれる』みたいな言葉とよく組み合わさってる気がする、桜ってあんまり『生まれる』って言わないけど、柳生とか言うじゃない」

「ひとみたいだからじゃない? 柳は」

 

そこでサイレンが鳴った。消防署が近いからなのか、右耳から左耳に突き抜けるようなすごい音量だった。ミドリは立ち上がって川の流れの先を向いたので、わたしもそうした。

なんとなく、目を瞑らなかった。黙とうは祈ることが目的であって、目を閉じなければいけないものではない、と、唐突に思った。それよりも、黙とうの時間のこの街の様子を目に焼き付けたいと思った。

向こう岸で並んで黙とうする二十代と六十代らしき母娘。

べったりくっついているのをやめて深く俯くピンクの服の女と、ニット帽をすぐに脱ぐその彼氏(脱いだらスキンヘッドだった)。

黙とうするように言われても遊び続ける小さな子供と、それを窘めることに諦めてひとり黙とうする母親。

遠くから聞こえてくる演歌と思しき音楽。

黙とうしている人たちを眺めながら自転車を漕ぐ老人男性。

橋を渡り続けるサラリーマン、学生、老夫婦。

通過するバス、乗用車、社用車、軽トラ。

川の流れにあらがって浮かんでいる鴨。

規則性があるように見えて、すべて一度きりなのかもしれない川面の光。

 

何を見ても意味になり、何をしても無意味であるようなきもち。

 

 

サイレンが鳴りやむ。その反響音がすっかり消えるまで黙っていた。こんなにたいへんなことがあったのに、たくさんの人が死んだのに、黙とうが一分は短すぎる。でも、じゃあ、何分祈れば、何に追いつくんだろう。

 

黙とうを終えたミドリと目が合うのとおなじタイミングで、公園から「皆様ありがとうございました」とアナウンスが聞こえてきた。ありがとうございますって、誰に対して何を感謝するものなんだろう、と思ってしまう。わたしたちが祈るときそれが何の意味もないことだといつも思ってしまう。失わなかったわたしにはやはり何を言う権利もないと、未だにそう思う。

 

WBCの先発は佐々木朗希らしいよ311だから。311だから……そうですか。佐々木選手が投げるのがたまたまきょうだっただけならいいと思う。

意味にすることも、意味になることも、わたしが意味を拒否することが他人の大事な意味を貶してしまうかもしれないことも、すべてまだこわい。

 

阿部魚店でたらこを買った。2011年の3月12日にたらこを買ったのと同じ店でたらこを買うという営みが、わたしの灯篭であると胸を張ることができたらきっと楽だと思う。そういう儀式のようなことだけして満足したくないと思うのに、じゃあ3月11日以外に被災地のために何をしているのかと問われると、なにも答えられない。

 

たくさんの人が死んだのに、と言うくせに、わたしはその数をきちんと知らないので改めて調べた。東日本大震災での直接死 15900人、行方不明 2523人。これが、おなじ県とその隣県で起きたのだ。やはりどうしても何を言える権利もなく、わたしの祈りは誰のためにもならないような気がしてしまう。氷柱の声を書いてもなお、そう思う。

 

米が炊ける音がした。きょうの夕飯は白米にたらこを乗せて食べる。これは儀式ではない。けれど、来年もそうしようといまは思う。