本日発売の群像4月号に、はじめての小説作品『氷柱の声』が掲載されています。

2020年8月に、3月に出る号に何か書いてみませんか、とお声掛けいただいた際は30枚くらいの予定だった作品が、書きあがると150枚のものになったこと。自分でも、ここまで長い作品を書くとは思っておらず、支えてくださった担当編集さん、この場を与えてくださった編集長に大きな感謝をします。

『氷柱の声』を書き上げるにあたり、岩手、宮城、福島にゆかりある7名の同世代の友人、知人から取材のご協力をいただきました。取材、と言っても、実際にお会いすることは叶わずZOOM等で顔を合わせながら、取材なのか、おしゃべりなのかわからないような会話をしていくなかで、皆さんから「そういえば」とか「言うほどじゃないんだけど」と前置きをつけて聞かせていただいた話が、この物語をつくりあげました。取材をすること、作品にすることを温かく見守ってくださった7名の皆さんに感謝いたします。

東日本大震災が起きたとき、わたしはもうすぐ高校二年生になる、という春でした。実家にひとりでいて、ものすごい地鳴りと、きしむ家具の音、ぷちん、と切れるテレビの音を聞き、ばくばく鳴る胸を押さえて食卓のテーブルの下に潜りながら、ぼんやりと「避難訓練って、ちょっとは意味あるんだなあ」と思ったのでした。あのときの、地球が終わってしまうのではないかと感じるほどのそわそわした怖さを、だんだん、上手に思い出せなくなっています。

数日、数週間、数カ月が経っていろんなものが復旧して見えたのは、その、想像もできないような被害の大きさでした。岩手県や宮城県で暮らしながら、友人や、知人や、たまたま居合わせた人とのふとした会話の中で、その人が震災によって大きな喪失を経験していたと知る、ということが何度もありました。あくまで軽く、あかるく語られるその断片に「自分は内陸で被害をほとんど受けずにいて申し訳ない」と思ってしまうことは、自然なことだったように思います。そうして数年経つうちに、あなたは震災の時はどこで何を、と問われると「内陸だったので、ライフラインが三日止まったくらいで……」と言うようになりました。震災について話してほしい、と言われると「わたしは被災者ではないので」と言うくせに、こころの中で「自分は被災者ではない」と思ったことは無く、この矛盾した気持ちを、どこに持っていけばいいのかわからない日々がずいぶん長く続きました。それでも、俳句や短歌をしながら震災詠について考えたり、海へ行ったり、三月になっていろいろな特集が目に触れるようになったりする。そのつど、いつか自分が震災を扱った作品を書く日が、書ける日が、書いていい日が、書かねばと思う日が、来るのだろうか、と、どこかで思い続けてきました。

十年。文芸部で文芸作品を書いていた十六歳のわたしは、不思議なご縁が連なって作家として活動する二十六歳になりました。しかし震災が起きてから、小説を書き上げたいまに至るまで、震災に触れた作品を書くとき「これでよかったんでしょうか」と誰かに縋りついて問いたくなることに変わりありません。
この小説は十年という節目になったから書いた、というよりも、十年、という節目によって生まれた機会が、わたしを押し上げてくれたような感じがします。

被災県の十代に大人たちから向けられる「未来」という役割、震災のことを物語として作品化することへの疑問、内陸の自分が語り手としての役割を果たす「資格」はないのではないかという実体験への執着、そういった誰にも打ち明けにくく、しかし、解決もしない自分の思いと、7人がそれぞれの人生で抱えた「声」を、フィクションであれば託すことができるのではないかと思いました。

書き終えてみて、この作品を誰に届けたいとか、どう感じてほしいとか、伝承としてとか、そういったメッセージを発する勇気はありません。ただ、わたしと彼らはこう感じていた、という声が時間に溶けて消えてなくなってしまう前に、読んでくださった方のまた新しい声につながることを願っています。