<BLOG>2024年3月11日の日記
3月11日が平日なのは家で仕事をするようになってから初めてのことなので、朝からぼんやりと「きょうは黙祷の時間どこで過ごそう」とばかり考えていた。去年は夫と散歩をして川沿いで黙祷をした。
今朝から一日中きもちの調子がすぐれず、集中力が続かないままあっという間に11時になった。この気分のすぐれないのは今日が3月11日であることは関係なく、とても単純に、自分への不満と不安と単純な疲労の蓄積によるものだとわかっている。とにかく仕事をしようとすると頭の中に濃い霧が立ち込めてしまう。Xで東日本大震災のときどんな経験をしたか話をしているポストをいくつか読んだ。
昼過ぎ魚屋へ行き、たらこと鱈を買った。その店は震災があって数日後に行った魚屋で、2011年はたらこを買ったら炊いた白飯をサービスしてもらった。まだうっすら温かい白飯とたらこ。黒い波を見て「映画じゃないんだから」と全く現実のことと思えなかったその日に見たのが新聞の一面の写真だったのかニュース映像だったのかもはや思い出せない。3月11日はたらこご飯を食べると、わたしが決めた。そうやって儀式のようなものを作ってそのときだけ何かした気になるのってどうなんだろう、って思うわたしを(うるせえよ)と思う。帰り道でガソリンを満タンにする。震災のときガソリンを入れるのに長蛇の列が出来て本当に大変だったから、いつなにがあってもいいようにメーターが半分を切る前に必ず満タンにしたほうがいい、と、母はことあるごとに口を酸っぱくして言うが、車を買ってからそれを実践できたためしがなく、ガソリンがすっからかんになった車にガソリンのノズルを差し込むとき、いつもどこか後ろめたい。
「きょうはさんてんいちいちのため、防災について○○大学教授の△△さんから~」
車のラジオから全国ネットの番組でそう聞こえてくる。東日本大震災のことを「さんてんいちいち」と呼ぶこと、あまり好きではない。なぜかと問われてもうまく答えられないけれど。黙とうの時間どこで過ごそう、と漠然と考える。
結局午後も思うように仕事が進まず、肋骨の中の、背骨に近いところが黒くもやもやとうずくような感じのまま、チョコレートを食べたりお茶を飲んだりして気を逸らした。午前から作業のためにビデオ通話を繋いでいるモリユは何度か「れいんさーんだいじょうぶ?」と言ってくれて、その気遣いがとても助かった。気圧かもですよ。気圧かあ、気圧と体調を紐づけるようになったら、気圧が低いと思ったとたん落ち込みそうになっちゃってこわいんだよねえ。でも気圧のせいにできると気も楽ですよ。そうだよねえ。はじめて検索した「頭痛ーる」には東北に「超警戒」と書いてあり、赤く爆弾のイラストがあって笑った。
14時半にモリユとのビデオ通話を一旦切り、リビングでうろうろしながらiPhoneで北を示して、ちっともサイレンが聞こえないまま(まだかな)とiPhoneの時間を表示するともう14:47だった。去年いた場所ではサイレンが聞こえたのに。場所によってはサイレンが鳴らないのかもしれない。47分に目を閉じて、目を開けても47分で、音のない場所で1分間黙とうをするのはとても難しいことだと思った。サイレンがあれば1分間はあんなにあっという間なのに、無音の1分間はとても長かった。再び目を開けてから、そもそも向くべき方角は北ではなくて東じゃないか。もう何もかもだめかもしれない、と、泣きじゃくりたいような気持になる。繰り返すが、一日中だめなのは今日が3月11日なこととは全く関係がない。
去年の3月11日の日記を読み返す。わたしが思っていることが全部書いてある、と思う。『氷柱の声』を読み返す。わたしが思っていることが全部書いてある、と思う。
“書き終えて感じたのは「震災もの」なんてものはない。ということだ。多くの方が「話せるほどの立場」ではないと思っているだけで、二〇一一年三月十一日以降、わたしたちの生活はすべて「震災後」のもので「『震災もの』の人生」だ。どこに暮らしていたとしても、何も失わなかったと思っているとしても。だから、この作品は「震災もの」ではない。”
『氷柱の声』のあとがきを書くとき、本当にひとりきりだった。わたしがわたしの両肩を掴んで話したようなかんじがあった。
本が出てから3年になるが、読者の方からいただくお手紙の多くに『氷柱の声』を受けて、自分の被災の経験の書かれたものがある。わたしの小説をきっかけに、はじめてそれを話せた、と言うような方が多く、怒涛であったり、小声であったりさまざまだけれど、一対一でお茶を飲みながらわたしに話してくださっているようなその手紙たちを読むたびに、書けてよかった、と、ほんのすこしだけ思うことが出来ている。返事を書けたのは最初のうちだけで、あとは読むばかりでなかなかしっかりと向き合った返事を書くことはできなくなってしまったけれど、わたしは本当にすべて読んでいて、作品がうまく書けないときは何度も繰り返して読んでいる。なかなか返事を出すことはできていないけれど、それはしっかりと時間を掛けて真正面から返さなければと思うような渾身のお手紙ばかり貰っているという証拠でもあり、本当にありがたい。みんな本当にそれぞれの人生でそれぞれの経験をしていて、忘れないために書きつけてくださっているのがわかって、わたしも何度でも思い返さなければと思う。
今年の元旦、避難を呼びかけるアナウンサーたちが「直ちに避難してください、東日本大震災を思い出してください」と繰り返しているのを聞いたとき、テレビの前で立ち尽くしてしまった。それくらいの有事であったことと、それくらい過去のようになっていること、それくらいのことが、本当にまた起きるのかもしれないということ。2024年1月1日、13年ぶりに、自宅の机に潜り込んだ高校二年生の春休みの緊迫したかんじを本当の意味で思い出したような気がした。全部のTVが緊迫した声のアナウンサーにならなければ、その時のきもちを再生することが難しくなっているという事実にも気が付いた。あのとき、机の下に潜り込んだわたしの四つん這いの胸の下に潜り込んできた愛犬も、もういない。思い出せなくなっている。わたしは13年前のことをすこしずつ思い出せなくなっている。
「東日本大震災を思い出してください」
なにを思い出せばいいのか教えてくれるのは過去のわたしで、いまのわたしが過去になる。
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